「ルー=ガルー2」京極夏彦
おもしろかったです。
京極さんのシリーズ物は回を重ねるごとにキャラが暴走しておもしろいんですが、今作も美緒がスゴいことに・・・。
舞台は「ルー=ガルー」と同じ、近未来。「姑獲鳥の夏」がそうだったように、シリーズ第一作は耽美で切なくて、かなしかった。登場人物のことが愛しかった。
今回は「語り過ぎ」ているから、論理的にはスッキリするけどあまり心には残らない。
小説って難しいな、と改めて思った。
いろんな読者がいる。
わたしみたいに、論理なんてどうでもよくて、ただ強く惹かれるシーンや言葉で作品を読む人もいるだろうし、論理的矛盾が少しでもあると先を読むことができない、という人もいる。共感できないとおもしろくない人も、紋切り型に嫌気がさす人もいる。
どの読み方が正しい、なんてことはない。だから書く時に、「だれに喜んでもらえる小説を書くのか」ということでいちばん悩む。
わたしは、わたしの読みたい小説を書きたい、と思っている。
どこにもない、わたしのためだけに書かれた小説を書きたい、と思っている。
そしてわたしのためだけに書かれた小説は、きっとだれかが喜ぶ小説のはずだ、と思っている。
でもわたしは、いったい何が読みたいんだろう、としょっちゅう迷う。
「わたし」と「だれか」が重なるときなんて、本当に来るんだろうか、と苦しくなる。
わたしがだれかに重なろうとしない限り、そんな瞬間はこないんじゃないだろうか、と思うから、どのように書くかを悩む。
わたしは書くとき、ひとりぼっちだ。
わたしだけじゃなく、言葉を書く人はみんな、ひとりぼっちだ。
だれにも共感されないかもしれない、だれもがそっぽを向くかもしれない、だれかを傷つけるかもしれない、すごい考え違いをしているかもしれない、わたしの記憶は全部うそかもしれない、言葉は何も伝えないかもしれない、うるさいだけかもしれない、いろんなことが来たり去ったりしている中で、わたしは書き始める。
いくらかの人たちに、作品が楽しみだと言ってもらえるようになった。
早く新作が読みたい、と言ってくれる人ができた。わたしにしか書けない、と言ってくれる人もできた。それが読みたいのだと。
「わたし」と「だれか」は一瞬、重なったのかもしれない。
だけど次に書く文章は、その「だれか」を決定的に傷つけてしまうかもしれない。
もう未来永劫、夢のような一瞬は来ないかもしれない。
ある人が、「書くときに、自分で自分を抱きしめなさい」と言ってくれた。
「そのときはあなたにしか、あなたを抱くことができない。だれも手伝えない。でもだれもいなくなっても、あなた自身はいなくならないから。あなたに抱きしめられている限り、あなたとあなたの作品は大丈夫だから」と。
それしかないのかな、と思っている。
書き上がった作品をだれかといっしょに抱きしめてあげたい、と思いながら、ひとりぼっちで書くしか。
2011年11月28日月曜日
2011年11月26日土曜日
ずいぶんご無沙汰しましたが、信長の野望など
超絶忙しかったのですが、そんなことが書かない理由になるとは思っていません。
わたしの怠惰です。
さて今日はPCもご機嫌なので。
忙しいといいつつも、本は何冊か読みました。
「額田大王」井上靖
「関ヶ原」司馬遼太郎
「ルー=ガルー2」京極夏彦
いやあ、おもしろかった。
「関ヶ原」は再読ですが、つくづく現代のわたしたちの持つ戦国武将のイメージって司馬遼太郎によって作られたんだなあ、と思いました。
だって、「信長の野望」の武将イラストは司馬遼のイメージに他ならない(笑)。
(わたしの戦国武将知識は、ほとんどが「信長の野望」によるものです)
ところでわたしは、大人になるまで日本史の勉強をしなかった。
なにしろ高校3年生まで進学するとは思ってなかったため、勉強というものは日本史に限らずしたことがなかった。
受験すると決めて、国語と英語はあんまり勉強しなくてもできたから(これはひとえに、本を読むのが好きだったからです。天才だとか、そういう意味ではありません。念のため)、ひたすら日本史をやったのですが、このころの勉強というのはまったく身につかなかった。
前述の通り、わたしが国語・英語でほとんど何もせずに点をとれたのは、古文にしろ漢文にしろ英語にしろ、とにかく文字や文章を読むのが好きだったという病的な嗜好によるもので、もともと勉強して身に付くような素質はないわけです。
案の定、日本史は相当がんばったのに全然点が取れなかった。奇跡的に大学には合格したけれど、あとで教授に聞いたら「文章が書けたから」という理由だった。(二次試験は日本史も論述式だったため、ハッタリで長い文をそれらしく書いた)
いちばん悪いことは、日本史をおもしろいと思わなかった。あれだけ勉強したのに。
ところが、ですよ。
「信長の野望」。
日本のゲームというのは本当に優れてる。
ご存知のとおり、こんなおもしろいゲームはなかなかないのです。
武将になってとなりの国を奪っちゃう。暴力的に、近隣諸国を蹂躙できる。
ところが暴君は落ちぶれる。なんとこのゲームは内政もちゃんと行なわなければならないのです。
適材適所、自分についてきてくれる武将たちに仕事をさせる。下克上も起きる。いつも自分を律して、いい政治をしながら、軍事力の強化も怠らず、天下をとりにいく。
おもしろかった。
自然と、戦国時代に詳しくなった。興味も出た。司馬遼太郎を越えて、原典を読むほどに歴史がおもしろくなった。
こうなると、どんどん頭に入るわけです。
いかにわたしが普通に勉強できない人間かということなんだけど。
今やわたしは、はっきりと歴史好きです。歴史って物語なんだよね。今さら気付いたんだけど。人間なんだよね。
学校の勉強では、そんなの全然わかんないよね。わたしだけかな。
何が書きたかったのかなあ。
ほかにもっと書きたいことがあったのになあ。
そうそう、ショックだったこと。
わたしは夜中によく、はっきりした寝言を言ったり、体を動かしたりしてるらしいんだけど、それって睡眠障害なんだって!
だから昼間、こんなに眠いのか。
夢ばっかり見てる気がするしなあ。
また明日。
わたしの怠惰です。
さて今日はPCもご機嫌なので。
忙しいといいつつも、本は何冊か読みました。
「額田大王」井上靖
「関ヶ原」司馬遼太郎
「ルー=ガルー2」京極夏彦
いやあ、おもしろかった。
「関ヶ原」は再読ですが、つくづく現代のわたしたちの持つ戦国武将のイメージって司馬遼太郎によって作られたんだなあ、と思いました。
だって、「信長の野望」の武将イラストは司馬遼のイメージに他ならない(笑)。
(わたしの戦国武将知識は、ほとんどが「信長の野望」によるものです)
ところでわたしは、大人になるまで日本史の勉強をしなかった。
なにしろ高校3年生まで進学するとは思ってなかったため、勉強というものは日本史に限らずしたことがなかった。
受験すると決めて、国語と英語はあんまり勉強しなくてもできたから(これはひとえに、本を読むのが好きだったからです。天才だとか、そういう意味ではありません。念のため)、ひたすら日本史をやったのですが、このころの勉強というのはまったく身につかなかった。
前述の通り、わたしが国語・英語でほとんど何もせずに点をとれたのは、古文にしろ漢文にしろ英語にしろ、とにかく文字や文章を読むのが好きだったという病的な嗜好によるもので、もともと勉強して身に付くような素質はないわけです。
案の定、日本史は相当がんばったのに全然点が取れなかった。奇跡的に大学には合格したけれど、あとで教授に聞いたら「文章が書けたから」という理由だった。(二次試験は日本史も論述式だったため、ハッタリで長い文をそれらしく書いた)
いちばん悪いことは、日本史をおもしろいと思わなかった。あれだけ勉強したのに。
ところが、ですよ。
「信長の野望」。
日本のゲームというのは本当に優れてる。
ご存知のとおり、こんなおもしろいゲームはなかなかないのです。
武将になってとなりの国を奪っちゃう。暴力的に、近隣諸国を蹂躙できる。
ところが暴君は落ちぶれる。なんとこのゲームは内政もちゃんと行なわなければならないのです。
適材適所、自分についてきてくれる武将たちに仕事をさせる。下克上も起きる。いつも自分を律して、いい政治をしながら、軍事力の強化も怠らず、天下をとりにいく。
おもしろかった。
自然と、戦国時代に詳しくなった。興味も出た。司馬遼太郎を越えて、原典を読むほどに歴史がおもしろくなった。
こうなると、どんどん頭に入るわけです。
いかにわたしが普通に勉強できない人間かということなんだけど。
今やわたしは、はっきりと歴史好きです。歴史って物語なんだよね。今さら気付いたんだけど。人間なんだよね。
学校の勉強では、そんなの全然わかんないよね。わたしだけかな。
何が書きたかったのかなあ。
ほかにもっと書きたいことがあったのになあ。
そうそう、ショックだったこと。
わたしは夜中によく、はっきりした寝言を言ったり、体を動かしたりしてるらしいんだけど、それって睡眠障害なんだって!
だから昼間、こんなに眠いのか。
夢ばっかり見てる気がするしなあ。
また明日。
2011年10月1日土曜日
ちょっと調子がいい
PCがあやしいです。
ネット上で日本語入力ができません。
直接入力の半角文字は入力できるし、ワードなどには問題なく入力できるのですが(カーソルが飛んで行ったりしますから問題なく、というのは嘘ですが)、gmailや、このブログなどは一文字たりとも入力できません。
だからどうしても、という時にはワードに書いて、コピペして送信していました。
ところが今日、ちょっと調子がいいです。
今、直接入力しています。すごく久しぶりの感覚。
とても当たり前にしていたことなのに、できない時期が長いと、できたときにこんなに嬉しいのか、と思います。
なにごともそうですね。
わたしは長年ひどい生理痛に悩まされてきて、排卵後の高温期は高温すぎて37.5℃くらいになってしんどいし、月経一週間前から軽い腹痛が始まって、月経後2、3日経つまでロキソニン飲んでも前屈み、みたいな、今考えたら人間の生活じゃないよな、っていう日常を送っていました。
ところが7月に内膜症を一部残して取ってもらってからというもの、ほとんど痛みがなくなってびっくりしています。
生理中はさすがに多少仕事に差し障る程度の痛みがあるのですが、それも薬飲んだらまあ大丈夫だし、何より驚いたのは、前触れもなく出血することです。
あの、「さあ来るぞ、もう来るぞ」という痛みと不快感と微熱による長いイントロがなくなり、ボーカル先行でサビから始まる曲みたいな感じになりました。
けっこうびっくりする。
でも、考えてみれば中学、高校のころってそれが当たり前だったなあ。
脳みそはすぐに現状を「当たり前」化してしまって、実はモトに戻ってるだけなのに新鮮に感じたり、驚いたりできる。
よくできてるな、と思ったり、雑な作りだな、と思ったりします。
わたしは人より病的に忘れっぽいので、余計なのかもしれません。
そういえば、敬愛する水木大先生は最近、何度も行った場所でも「初めて来た!」と言って喜ぶそうですし、それが人生の幸福感につながっているそうです。
何度でも感動する。
それも脳みその持つ、偉大な力だと思います。
ボケたり(わたしのように)病的にものを忘れたりするのは、何かを失ったわけではなく、新しい能力を手に入れたってことなのかもしれないなあ、と考えるときがあります。
いつでもしあわせを感じられるように作られてるのかもしれません。
何度でも驚けるように。
ネット上で日本語入力ができません。
直接入力の半角文字は入力できるし、ワードなどには問題なく入力できるのですが(カーソルが飛んで行ったりしますから問題なく、というのは嘘ですが)、gmailや、このブログなどは一文字たりとも入力できません。
だからどうしても、という時にはワードに書いて、コピペして送信していました。
ところが今日、ちょっと調子がいいです。
今、直接入力しています。すごく久しぶりの感覚。
とても当たり前にしていたことなのに、できない時期が長いと、できたときにこんなに嬉しいのか、と思います。
なにごともそうですね。
わたしは長年ひどい生理痛に悩まされてきて、排卵後の高温期は高温すぎて37.5℃くらいになってしんどいし、月経一週間前から軽い腹痛が始まって、月経後2、3日経つまでロキソニン飲んでも前屈み、みたいな、今考えたら人間の生活じゃないよな、っていう日常を送っていました。
ところが7月に内膜症を一部残して取ってもらってからというもの、ほとんど痛みがなくなってびっくりしています。
生理中はさすがに多少仕事に差し障る程度の痛みがあるのですが、それも薬飲んだらまあ大丈夫だし、何より驚いたのは、前触れもなく出血することです。
あの、「さあ来るぞ、もう来るぞ」という痛みと不快感と微熱による長いイントロがなくなり、ボーカル先行でサビから始まる曲みたいな感じになりました。
けっこうびっくりする。
でも、考えてみれば中学、高校のころってそれが当たり前だったなあ。
脳みそはすぐに現状を「当たり前」化してしまって、実はモトに戻ってるだけなのに新鮮に感じたり、驚いたりできる。
よくできてるな、と思ったり、雑な作りだな、と思ったりします。
わたしは人より病的に忘れっぽいので、余計なのかもしれません。
そういえば、敬愛する水木大先生は最近、何度も行った場所でも「初めて来た!」と言って喜ぶそうですし、それが人生の幸福感につながっているそうです。
何度でも感動する。
それも脳みその持つ、偉大な力だと思います。
ボケたり(わたしのように)病的にものを忘れたりするのは、何かを失ったわけではなく、新しい能力を手に入れたってことなのかもしれないなあ、と考えるときがあります。
いつでもしあわせを感じられるように作られてるのかもしれません。
何度でも驚けるように。
2011年9月10日土曜日
小学校パソコンサークル
今年から、娘の小学校のPTAパソコンサークルで講師をしています。
地域と仲のいい小学校で、会員はほとんどが地域の方。
わりとお年を召した方が多いです。
今日は、外に出てデジカメ撮影会をしました。
校庭の木で写真を撮る会員さん。
1年生が育てている朝顔。
撮ってきた写真のサイズを小さくする方法をやって、次回それを使ってカレンダーかなにかを作ります。
写真を選びながら会員さんたちは「ざくろがきれいね〜」「紫式部の色がいいね」などと、花の名前を当たり前のように呼んで話しています。
わたしは何もわかりません。
以前料亭にいた頃使っていた花だけはわかります。
テッセンとかトルコききょうとか、ミヤコワスレとか。
でもその辺りに咲いている花を見て、名前がわかるということがない。
そういえば、うちの母なんかも歩きながら「ボケの花がどうのこうの」言ってます。
わたしは花を活けるのが好きなのですが、なんせ花の名前を知らない。
せっかく四季のある国に住んでいて、こんなもったいないことはない、と思います。
それに、名前を知ってるというのは、身の回りに当たり前のように花があるということなんだろうと思うし、そういう生活のしかたがうらやましいと思いました。
わたしはこの場所の周囲のものたちに埋もれて生きているんだし、それを普段忘れ過ぎてるのではないかと。
近くにあるものごとにもっと目を向けて、自分の生活している場所をとても自然に理解できるようになりたいと、歴戦の京女(きょうおんな)たちを見ていて思ったのでした。
地域と仲のいい小学校で、会員はほとんどが地域の方。
わりとお年を召した方が多いです。
今日は、外に出てデジカメ撮影会をしました。
校庭の木で写真を撮る会員さん。
1年生が育てている朝顔。
撮ってきた写真のサイズを小さくする方法をやって、次回それを使ってカレンダーかなにかを作ります。
写真を選びながら会員さんたちは「ざくろがきれいね〜」「紫式部の色がいいね」などと、花の名前を当たり前のように呼んで話しています。
わたしは何もわかりません。
以前料亭にいた頃使っていた花だけはわかります。
テッセンとかトルコききょうとか、ミヤコワスレとか。
でもその辺りに咲いている花を見て、名前がわかるということがない。
そういえば、うちの母なんかも歩きながら「ボケの花がどうのこうの」言ってます。
わたしは花を活けるのが好きなのですが、なんせ花の名前を知らない。
せっかく四季のある国に住んでいて、こんなもったいないことはない、と思います。
それに、名前を知ってるというのは、身の回りに当たり前のように花があるということなんだろうと思うし、そういう生活のしかたがうらやましいと思いました。
わたしはこの場所の周囲のものたちに埋もれて生きているんだし、それを普段忘れ過ぎてるのではないかと。
近くにあるものごとにもっと目を向けて、自分の生活している場所をとても自然に理解できるようになりたいと、歴戦の京女(きょうおんな)たちを見ていて思ったのでした。
2011年9月8日木曜日
はじめました
おそるおそる、ブログを始めます。
ずっと、ブログを薦められてきました。でもブログ書くと発散しちゃいそうなので、意識的に避けてきました。
じゃあなぜ始めることにしたかと言うと、大好きな書き手である道明寺史さんのブログ「言葉の花束」(たまにわたしも登場しますw)を読んでいて、自分を日頃から客観視するために書くことは必要かも、と思ったからです。
あと、わたしは日記を書かない上に忘れっぽいので、日常の記録という意味でも何かあったほうがいいだろうと思って。
ツイッターやMixiでお付き合いしてくださってる方はお分かりの通り、わたしは衝動的に適当なことを乱暴に書きなぐることがあって、いやだなあ、と思ってます。
ここではできる限り落ち着いて、素直に言葉を綴ろうと思います。
さて、ブログタイトルですが、わたしは妖怪が大好きです。
三度の飯より好きです。
食べ物大好きなわたしが三度の飯より好きだというものは、この世にあんまりありません。
妖怪好き、というとスピリチュアルな世界が好きなのだろうと、よく誤解されてしまいますが、わたしはそっちは苦手です。
あくまでも文化として、妖怪が好きです。
もっと正確には、妖怪という文化を育んできた日本人、日本という土壌、というものが、とても好きです。
妖怪には言語学、文化人類学、民俗学、歴史学などの学術的側面がある一方、江戸期の黄表紙に代表される洒落、エロ、グロ、絵画、(いわゆる)小説などの庶民のオモチャ的側面があって、どこから攻めても面白い。
わたしは妖怪のことを考えているとき、混じり気のない幸福感に浸ってしまいます。
おおらかだった、かつての日本人の気質に幸福を感じるのかもしれない、と思います。
あ、ブログタイトルだった。
というわけで、江戸時代の知識人であり狩野派の流れを汲む絵師であり、戯作者恋川春町の師匠であった敬愛する鳥山石燕の「百鬼夜行」にちなんでタイトルをつけました。
境界、という言葉は妖怪にぴったりで、怪異というのはさまざまな境界に湧くものです。
それと、わたしは文章を書いている人として、いつも境界に身を置きたい、という気持ちがあって、この言葉を選びました。
これからよろしくお願いします。
ずっと、ブログを薦められてきました。でもブログ書くと発散しちゃいそうなので、意識的に避けてきました。
じゃあなぜ始めることにしたかと言うと、大好きな書き手である道明寺史さんのブログ「言葉の花束」(たまにわたしも登場しますw)を読んでいて、自分を日頃から客観視するために書くことは必要かも、と思ったからです。
あと、わたしは日記を書かない上に忘れっぽいので、日常の記録という意味でも何かあったほうがいいだろうと思って。
ツイッターやMixiでお付き合いしてくださってる方はお分かりの通り、わたしは衝動的に適当なことを乱暴に書きなぐることがあって、いやだなあ、と思ってます。
ここではできる限り落ち着いて、素直に言葉を綴ろうと思います。
さて、ブログタイトルですが、わたしは妖怪が大好きです。
三度の飯より好きです。
食べ物大好きなわたしが三度の飯より好きだというものは、この世にあんまりありません。
妖怪好き、というとスピリチュアルな世界が好きなのだろうと、よく誤解されてしまいますが、わたしはそっちは苦手です。
あくまでも文化として、妖怪が好きです。
もっと正確には、妖怪という文化を育んできた日本人、日本という土壌、というものが、とても好きです。
妖怪には言語学、文化人類学、民俗学、歴史学などの学術的側面がある一方、江戸期の黄表紙に代表される洒落、エロ、グロ、絵画、(いわゆる)小説などの庶民のオモチャ的側面があって、どこから攻めても面白い。
わたしは妖怪のことを考えているとき、混じり気のない幸福感に浸ってしまいます。
おおらかだった、かつての日本人の気質に幸福を感じるのかもしれない、と思います。
あ、ブログタイトルだった。
というわけで、江戸時代の知識人であり狩野派の流れを汲む絵師であり、戯作者恋川春町の師匠であった敬愛する鳥山石燕の「百鬼夜行」にちなんでタイトルをつけました。
境界、という言葉は妖怪にぴったりで、怪異というのはさまざまな境界に湧くものです。
それと、わたしは文章を書いている人として、いつも境界に身を置きたい、という気持ちがあって、この言葉を選びました。
これからよろしくお願いします。
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